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漆黒色の髪が、ひょぅ、と音を立てて吹き抜けた風に煽られて、肩を跳ねる。
埃っぽい空間に長く居付いたそれは、靡くようなしなやかさはなく、どこか刃のように、鋭く見えた。
薄ら。細められた金は、淀んだ色をして、目の前に立つ存在を値踏みでもするかのように見据える。
視線の先に佇むのは一人の男。屈強と言うにはやや足りない体躯は、けれど隙なく身構え、刺すような警戒をぶつけてくる。
獲物は太刀。珍しい物を持っていると、見つめる女は思考の端で思案を広げた。
殺風景と言うよりは、煩雑と称した方が似合う、雑多なものに溢れ返った路地の真ん中。相対する、男と女。
ぴりぴりと張り詰めた空気は、朽ちかけた家屋の影から覗く幾つかの存在を刺激し、その視線を集める。
彼らが対峙する理由は、知らない。だが、その場にいる誰も彼もが、その理由を知ろうとは思っていなかった。
良く、あることなのだ。
一日に何度となく遭遇する人間同士の諍いに、今更理由を探るまでもない。探るとすれば、それが誰と誰で、いかにして巻き込まれずに傍観するか、その手段だけ。
そんな周囲の空気は、当然対峙する彼らにも伝わっているし、理解と認識を所有している。
つまりは、この痛いほどの緊張を有した情景も、いわゆる日常風景なのだ。
「……ふん」
ほんの僅かの沈黙を挟んで後、小さく零れたのは、女の笑み。
薄い唇がゆるりと吊り上り、嘲りにも似た笑みを湛えるのを見て、男は眉根を寄せた。
「舐めてんのか?」
じり、と。間合いを詰める爪先が、砂利を滑る音が、いやに大きく響いた。
けれど女は身構えるでもなく、襤褸切れに近い服を手繰って背に触れた。
ぱちん。音を立てて外されたのは、鞘に備えられていた留め具。次の瞬間、吹き抜けた風が切り裂かれる音がして、女の手に小振りのナイフが現れた。
「いやなに。わしにはお前さんを侮るつもりはないがの……」
細められたままの視線は、くるり。柄の握りを確かめるように手の中で一度回されたナイフを見つめている。
相変わらず笑みを湛えたままの唇が紡ぐのは、どこか温もりのある、女声。
到底似つかわしくはない口調は場の空気に違和感を孕ませたが、ほんの一瞬だった。
逆手に握り締めたナイフを眼前に掲げながら、追いかけるように上げられた視線。
「舐めておるのか?」
真っ直ぐに男を見据えた金は、全てを拒絶するかのような殺意に、満たされていた。
刹那の瞬間だった。女の気配に中てられたかのように地を蹴った男が急速に間合いを詰め、刀を真横に薙ぎ払う。
鋭い一撃は、けれど女に届くことはなく。きぃん、と甲高い音を立てて、彼女が掲げたナイフに阻まれた。
「ちっ……」
舌打ち一つ零して、男は返しざまに振り抜かれたナイフを避け間合いを取り直す。
刃を振り切ったままの姿勢で男を見据える女に、笑みはなかった。
「さぁて、お前さんに一つ問おうか。一体何が目的だ?」
「っ、そっくりそのまま返してやるよ、その質問!」
吼える男の腕が、灰色の体毛に覆われる。鋭い爪を持つ魔獣を顕現させた豪腕は、間を置かずに女を狙い済まし、交わす素振り一つ見せない女の胸元を深く抉った。
血飛沫が散り、ほんの一瞬赤く染まった視界。だが、確かな手応えを得た魔獣の腕に返されたのは、鋭く裂くような、激しい痛み。
「く、ぐ……!」
深く、深く。女の持つナイフが、根元まで、獣の腕に突き立てられている。
己が身を省みずに振るわれた刃が与えた傷は、胸部を深く抉られた女とは比べるべくもないほどに浅い。
だが、そんな狂気的とも取れる攻撃に、男の精神が大きく揺さぶられたのは、その顔を見れば明らかだった。
「わしの目的か? 聞くまでもあるまいて」
嘲るような――真実、嘲りを孕んだ笑みが、血が飛沫した女の口元を鋭利に歪める。
「お前さんの排除だ」
途端、深く突き立てられたナイフから……いや、それを握り締めた女の手から、彼女の持つ漆黒色とよく似た炎が噴出した。
意思を持つかのような炎は、獣の腕を焼きつくさんと纏わり付き、荒れ狂う波のように、暴れた。
「ひ…ぎゃああぁっ!」
「大の男が悲鳴を上げるでない。情けなかろう」
ナイフを引き抜けば、黒炎を纏った赤い飛沫が舞う。男が炎を払おうと腕を振るえばなお、赤は周囲に飛散する。
ぴちりと音を立てて、その一滴が女の目元に触れた。とはいえ、彼女の顔は自らの胸元が吐き出した血によって点々と赤に彩られており、男の血が一滴こびりついたところで、さして変化があるわけではなかったが。
「さて……続けるならば構えるが良い。逃げ帰るならば、わしはお前さんを追う事はせんよ」
無益だからと切り捨てて、女は油断無くナイフを握り、自分よりも長身である男を、見上げる。
そんな女を見下ろしながら、男はじりじりと後ずさる。今なお血を溢れさせている胸の傷をなんとも思わないような眼差しに、気圧されて。
「さぁ」
どうすると問う声が、男を振り向かせた。
怯えに似た声で負け惜しみを吐き出して、一目散に逃げ出したのだ。
その背が見なくなるまでを、瞳を眇めて見送ると、女はやれやれと息をつき、纏った襤褸布でナイフの血を拭い、鞘へと収めた。
ぱちん、と留め具のはまる音がして。それが張り詰めていた緊張の糸を切ったかのように。多くの視線を有しながらも静寂に満たされていた空間に、さざめく声が響いた。
――誰だった、あの男は。
――よそ者だろう。可愛そうに、知らずに来たのか。
――そうだろう、そうだろう。
――でなければこの界隈で人を襲ったりはしないだろう。
ひそひそ、ひそひそ。
幾人もの声が重なり、響く。
それはざわめきと言う名の不協和音でしかなかったはずなのに、会話が進むに連れ、一つの音に収束していく。
「だから魔女の子に狩られたんだ」
するり、と。耳朶を掠めたその音に、女は襤褸で口元を隠しながら、満足げに微笑んだ。
そうして、気取られぬ内にと踵を返す。
向かう先は、路地からは随分と離れた、ぼろぼろに崩れた家屋。目隠し代わりの布を払えば、瓦礫が散乱した室内に、何故だか真新しく見える椅子が二つ並び、その一つに黒衣を纏った老婆が腰を下ろしていた。
「随分と早かったじゃないか」
「ただの腰抜けだったからのぅ。婆様にも聞こえなんだか。情けない悲鳴が」
「さぁて。わしももう年だからのう、とんと耳も遠くなって」
惚けた体で笑う老婆に、女は小さく笑みを零し、部屋の隅に放られていた箱を開けた。
中には治療の道具が揃っていたが、どれもこれも衛生的とは言えない、薄汚れたものばかりだった。
見つめ、ほんの一瞬表情を消した女だが、何を言うでもなく包帯を取り出すと、水場へ向かい、血塗れの胸部を洗い流した。
「肉を切らせて骨を断つ、なんて言葉があってねぇ」
ぽつり、独り言のように零す老婆。
水が血を含んで滴り、足元で跳ねる音を聞きながら、女は何を言うでもなく老婆の言葉に耳を傾けた。
「相手を仕留めるには滅法便利な手段だが、そうでない場合、ありゃぁいただけたもんじゃあない」
つきりと、胸を痛めたのは、傷口に染みた水のせいだろうか。
思案をよぎらせながら、女はそれでも何も言わず、老婆の言葉を聴き続けた。
「自ら手傷を負って見せるなら、一撃で仕留めるもんだ。そうでなけりゃぁ、殺してくれといっているようなもんだ」
「婆様。わしは殺したぞ」
遮るような一言は、真実ではないが、嘘でもない。
女は、殺したのだ。男の気概を。衝動的に踵を返し逃げ帰らせるほどに、完膚なきまでに惨殺したのだ。
だからこそ女の声に偽りを暴かれる動揺などは微塵も無かった。だが、老婆はそんな女の言葉など聞こえていないかのように、己のペースで続けた。
「手負いの獲物ほど、狩りやすいものはない。お前さんもよぅく知ってるだろうに」
「この程度、傷の内には入らんよ」
「そうかいそうかい。そりゃぁ結構だねぇ」
けたけたと笑う老婆の姿を振り返ることはせず、女は大雑把に包帯を巻きつけ、最後に血塗れの顔を洗った。
そうして、家屋の入り口にかけられた布を、再びくぐった。
「……ふん。性懲りも無く、とは、よく言ったものだ」
薄らと微笑んだ女の前には、六人ばかりの男たち。その中には、先ほど逃げ出した男の姿も、あった。
「仲間が居らねば小娘一人にすら勝てぬと?」
「抜かせ、魔女の子が。老いぼれた魔女の時代は終わったんだよ。ここらを仕切るのは俺たちだ」
それぞれに獲物を掲げ、殺気だった様子で間合いをつめてくる男達に、女は小さく嘆息し、背のナイフへと手を伸ばす。
男達を見据える眼差しには、既に油断は無かった。
「おかしなことを言ってくれる。わしらはこの場所でのんびりと過ごしたいだけ。誰が何をせずとも、ここの者らは十分に生きていける。お前さんたちは、お呼びじゃあないんだよ」
ぱちん。留め具を外す音は、いわば合図だ。女の行動よりも早く、男達は一斉に襲い掛かる。
ナイフ一本で、全てを交わしきるのは難しそうだ。一つ二つは食らっても仕様があるまいと、胸中に思案を浮かべて。
女が、ゆるりとナイフを掲げた、刹那だった。
背後に構えていた家屋から、閃光が迸ったのは。
光は入り口で佇む女を器用に避けて、男達だけを貫いた。
やや遅れて閃いたナイフが何かを切りつけるより早く、女は驚いたように振り返る。
悲鳴が、爆ぜる様に広がって、赤くなった足元。ぱしゃりと何かが爪先を塗らした気がしたが、そんなものは気にも留めず、のそり、緩慢な動きで入り口の布を払いのける老婆を見つめていた。
「あぁ、あぁ、喧しいねぇ。一体何の騒ぎだい、ええ? 老いぼれの安息を邪魔するもんじゃぁ無いよ」
「……婆様、休んでいても構わんのだが……」
「お前さんがちんたらしているから、だろう? ほれ、さっさと始末を付けようじゃぁないかい」
禍々しい様相の剣が、一つ、二つ、虚無より現れては老婆の周囲を取り囲む。
夥しいまでの剣郡を、女はふと仰ぎ見る程度に見つめてから、己の手元にあるちっぽけなナイフを見下ろした。
「まだまだ、足りぬか」
力も、覚悟も、経験も、何もかも。
ぼぅ――。力強い炎が、けれどあまりに邪悪な色を伴って、女の手元で迸る。
す、と眇められた瞳が見据える男たちは、すっかり萎縮して、一喝すれば先ほどのように一目散に逃げていくだろうと想像できたけれど。
けれど、そうさせる気は、起きなかった。
「婆様」
「なんだい」
「わしらは、悪人だろうか」
「何言ってんだい」
しわがれた声がからりと笑い、細い指先が宙を踊れば、邪剣が合わせて揺らめき。
「わしらは、極悪人で丁度良いんだよ」
一縷の望みさえ垣間見せることなく、躊躇も容赦も切り捨てた軌跡を描いて、男たちへと突き刺さった。
悲鳴さえも切り刻まれるかのような情景を、見つめて、見つめて。
炎を手元に湛えた女が見つけたのは、最初に逃がした男の、何かに縋るような、眼差し。
「――それも、そうか」
突き返したのは、暗澹色の炎。
それは一瞬で男を飲み込み、焼き尽くした。
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