女は笑顔で出迎えた。
男は、湛えた表情を隠すように、黒い帽子を深く被りなおした。
「何か用でも?」
「……呼んだのは、君のほうだろう?」
「さて、お前さんはわしに告げたい言葉があると思っておったがの?」
だからこうしてきっかけを作ったのだと、女は唇だけで笑う。
にこりと細められた瞳には、それが、乏しく見えた。
扉の前で佇んだままだった男は肩を竦め、かすかに帽子をあげて瞳を見せると。
「立ち話もなんだし、良ければ席を貸してもらえないかな」
設えられた茶の席へ、女を促した。
「ごめんね」
開口一番。男は申し訳なさそうに呟いた。
木目に漆の光沢が眩しいカップに口をつけ、少し冷めた紅茶を飲んでいた女は、相変わらずの笑みで、首を傾げる。
「お前さんがそれを告げる要因が?」
「さぁ、君も知っている彼女は、そうとは言わないだろうね。だけれど俺の気持ちとしては、それが一番相応しい。もう少しくらい、出来たことがあったんじゃないかってね」
ことり。持ち上げただけのカップを元の位置に戻して、男は取っ手を指先で遊ぶ。
言いよどむような間に、けれど女は何を言うでもなく、二口目を飲み下す。
「……それ以上にね。俺は、あの時、逃げ出したいと思った」
開いた扉の先には朱が満ちていて。
その中に、一人、佇むものが居て。
その足元には、かすかに白んだ紅色が居て。
何かが、よぎって、重なった。
「逃げてどうする」
かたん、と。少し乱暴に置かれたカップの音が、奇妙な静寂を孕んだ室内にじわりと響く。
鋭利ですらある女の声に、男は小さく、力なく笑った。
「そう、そうだよ。逃げて、どうするんだよ。今だからこそそう思っているけれどね、あの時は、そうしたくて仕方が無かった」
「いつかの時にそうした結果を、悔いていると思っておったが……お前さんにとって、その記憶は後悔に足りるものではなかったと?」
「はは、厳しいなぁ」
たまりかねたような笑い声は、思いのほか空しく、掻き消えた。
俯いた男の顔は、すっかり見えなくなってしまったけれど、どこか、泣き出しそうな顔をしているように思えた。
「悔しいさ。後悔しているさ。だけど、だからって判らないんだよ。どうしていれば良かったかなんて、今だって判らない。あの時だって、救える自信なんてなくて、どうしていいか、判らなくなった」
けど、ね。
そう、言葉を切って。男は、薄らと湛えた笑みで、女を見つめた。
「今回、逃げずに済んだのは、教えてもらえたからなんだ」
傍らで、同じ光景を見た人が、真っ直ぐに唱えた感情。
「それが、救いになったと?」
確かめるような女の問いに、ふわり、男は和らいだ笑みで頷いた。
「あの時とは違うんだって。今は、迷う必要はないんだって、判らされたよ」
だから、踏み込めた。焦りに余裕を乗せられた。
その結果、護ることができたのか、救うことができたのか。それは、自分が決めることではないのだろうけれど。
「ねぇ、君は知ってるだろう。俺はね、臆病なんだ」
「さてな、お前さんがそういうのならそうなのだろうと、そう思う程度だが」
「くく、それは酷い。それじゃあもう一つ聞かせておくれよ」
戯れるように言葉を紡ぐ男は、両の指を絡め組んだ台座に笑顔を乗せて、首を傾げて見せた。
「佇む者と、横たわる者と。どちらも護りたくて救いたい存在だったら、君はどうする?」
真っ直ぐに見据えてくる視線に、真っ直ぐに、応えて。女は表情の乏しかった瞳をゆっくりと伏せて、開く。
見つめ返す瞳には、弧を描く唇と同様の、優しい微笑が灯っていた。
「そうね、きっとどうにかして、どちらも護ろうとするわ」
真っ直ぐな応えに、男は満足げに笑った。
「それは、酷い答えだ」
酷いといいながら、笑う男に嘆く装いはなく。いっそどこか、安堵さえしているように見えた。
「ハードルはね、どこまでも引き上げた方が良いのよ。そうでなければ中途半端に憂いが残るから」
何の気ない顔で語る『持論』は、きっと、彼女の指針たる誰かの言葉なのだろう。
迷いの無い女の姿を見ると、それが羨ましくさえ、思えた。
「越えられないハードルは心を折るものだよ?」
「あら、ハードルは超えるものよ?」
くすくすと笑って、女は暖かいポットを手に取った。
「いずれ、貴方が超えることを願っているのよ?」
すっかり冷めた紅茶を飲み干して、男は肩を竦めてカップを差し出した。
「それはまた、随分期待をされたものだ」
注がれる熱が、飲み下した体の内でじわりと広がるのを感じて。
「ごめんね」
「どういたしまして」
もう一度だけ囁いた男の囁きに。
何の気なく笑う女の返答は、噛みあわないまま調和した。
@背後
へこんだって話。
むしろへこんでたって話。
うちの子と、うちの子。
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